ふとした瞬間に、封印したはずの時間を、容赦なく呼び戻す。
人は、言葉や映像よりも、匂いで過去を思い出すという。
家族と暮らした家の夕飯の匂い。
冬の朝の、肺の奥まで冷える空気。
そして、愛した人と同じ香水が、ふと漂った瞬間。
仕事と健康を同時に失った私の手元から、
最後に滑り落ちていったのは、心の支えだったひとりの男性だった。
これは、後に楽曲『罪深香』へと姿を変えることになる、
ある別れと孤独の記録だ。
病名は、まだ確定していなかった。
けれど体調だけは、確実に悪化していく。
かつては対等だった関係が、
いつの間にか「支える側」と「支えられる側」に変わっていく。
その歪みは、言葉にしなくても伝わった。
彼のまとっていた空気が、
優しさから、義務感へ、そして疲労へと変わっていくのが分かった。
俺がいなきゃ、お前は生きていけないだろ。
その言葉は、愛ではなかった。
私を守るものではなく、静かに縛る呪文だった。
通院の予定が、デートの代わりにカレンダーを埋めていく。
彼の笑顔が減り、ため息が増えるたび、
私は自分の存在そのものを、恥じるようになっていった。
その頃、社会はコロナ禍へ突入していた。
在宅ワークは、自由な働き方として語られた。
けれど現実は、毎日が日曜日のようで、
同時に、毎日が仕事のようでもある、曖昧な孤独だった。
仕事は止まり、営業もできない。
それでも地方から東京への通院は続く。
新幹線代、ホテル代、高額な検査、特殊な薬。
コロナだから外出を控えてください。
そう言われながら新幹線に乗る私は、
地方では異物のような視線を浴びていた。
別れの日は、唐突で、そして必然だった。
激しい言い争いも、涙の別れもない。
彼はただ、私の人生から退場することを選んだ。
玄関のドアが閉まる音。
鍵がかかる、乾いた金属音。
彼が出ていったあとの部屋に残っていたのは、
彼が使っていた香水と、
私自身が纏っていた香りが混ざり合った、微かな残り香だった。
姿はもうないのに、
香りだけが、そこにいるかのように漂っている。
それは、日常であり、安心であり、
同時に、心臓を鷲掴みにする凶器でもあった。
窓を開けても、空気を入れ替えても、
鼻の奥に残る香りは消えてくれない。
香りを嗅ぐたびに、
愛されていた頃の私と、
見捨てられた私を、何度も往復させられる。
同じ香水を、街ですれ違った誰かが纏っているだけで、
一瞬で、あの部屋に引き戻される。
なんて罪深い香りなのだろう。
この感覚が、
あなたと同じ香水の香りが漂った
という一節になり、
やがて『罪深香』という楽曲へと形を変えていく。
仕事も、健康も、愛も失った部屋で、
私は香りという記憶と向き合っていた。
香りは、過去を呼び起こす。
でも同時に、人が確かに生きて、誰かを愛した証でもある。
このエッセイは、
病気と共にある日々を、
もう一度、生き直すための記録だ。
普通に働きたい。
普通に笑いたい。
ただ、それだけだった。
それでも私は、
生きづらさを、少しだけ美しく言葉にすることで、
誰かの記憶や痛みが、
ひとりぼっちにならないようにと祈っている。
「透明な履歴書」には、言葉にならない感情を託した「主題歌」があります。 限られた時間の中で録音された、祈りのような3つの旋律。 それぞれの物語の湿度に合わせて、静かに添えました。
川島琴里の声による朗読と、エピソードトーク。 現在、一つひとつの物語に音を灯す準備をしています。 完成したエピソードから、この場所で公開されていきます。
あなたの「影」の物語を、教えてください。 履歴書には書けなかった空白、誰にも言えなかった葛藤、そして再生の瞬間。
ハッシュタグ #あなたの透明な履歴書 (または #TransparentResume)をつけて、SNSで言葉にしてみてください。 投稿された物語の一部は、今後このサイトやPodcastにて、川島琴里の声で紹介させていただく場合があります。
「透明な履歴書」は、単なる個人の記録ではありません。 現代社会のシステムからこぼれ落ちてしまった「見えない時間」や「個人の尊厳」に光を当てる、アート・プロジェクトです。
本プロジェクトの趣旨に共感いただけるメディア様、研究者様、企業様からのお問い合わせを歓迎いたします。 (※本プロジェクトは、合同会社COTOLXの社会活動(CSR)の一環として運営されています)