Kotori Kawashima

Webフリーランスディレクター
/アーティスト/モデル/タレント

透明な履歴書Transparent Resume

2026.01.07

第4話|去りゆく背中と残り香。病が奪った最後の砦との別れ

香りとは、記憶の栞だ。

ふとした瞬間に、封印したはずの時間を、容赦なく呼び戻す。

人は、言葉や映像よりも、匂いで過去を思い出すという。
家族と暮らした家の夕飯の匂い。
冬の朝の、肺の奥まで冷える空気。
そして、愛した人と同じ香水が、ふと漂った瞬間。

仕事と健康を同時に失った私の手元から、
最後に滑り落ちていったのは、心の支えだったひとりの男性だった。
これは、後に楽曲『罪深香』へと姿を変えることになる、
ある別れと孤独の記録だ。

蝕まれていく日常と、重荷になる私

病名は、まだ確定していなかった。
けれど体調だけは、確実に悪化していく。

かつては対等だった関係が、
いつの間にか「支える側」と「支えられる側」に変わっていく。
その歪みは、言葉にしなくても伝わった。

彼のまとっていた空気が、
優しさから、義務感へ、そして疲労へと変わっていくのが分かった。

俺がいなきゃ、お前は生きていけないだろ。

その言葉は、愛ではなかった。
私を守るものではなく、静かに縛る呪文だった。

通院の予定が、デートの代わりにカレンダーを埋めていく。
彼の笑顔が減り、ため息が増えるたび、
私は自分の存在そのものを、恥じるようになっていった。

コロナ禍が加速させた、孤立という現実

その頃、社会はコロナ禍へ突入していた。

在宅ワークは、自由な働き方として語られた。
けれど現実は、毎日が日曜日のようで、
同時に、毎日が仕事のようでもある、曖昧な孤独だった。

仕事は止まり、営業もできない。
それでも地方から東京への通院は続く。
新幹線代、ホテル代、高額な検査、特殊な薬。

コロナだから外出を控えてください。
そう言われながら新幹線に乗る私は、
地方では異物のような視線を浴びていた。

ドアが閉まり、香水の香りだけが残った

別れの日は、唐突で、そして必然だった。

激しい言い争いも、涙の別れもない。
彼はただ、私の人生から退場することを選んだ。

玄関のドアが閉まる音。
鍵がかかる、乾いた金属音。

彼が出ていったあとの部屋に残っていたのは、
彼が使っていた香水と、
私自身が纏っていた香りが混ざり合った、微かな残り香だった。

姿はもうないのに、
香りだけが、そこにいるかのように漂っている。

それは、日常であり、安心であり、
同時に、心臓を鷲掴みにする凶器でもあった。

罪深い香り、消せない記憶

窓を開けても、空気を入れ替えても、
鼻の奥に残る香りは消えてくれない。

香りを嗅ぐたびに、
愛されていた頃の私と、
見捨てられた私を、何度も往復させられる。

同じ香水を、街ですれ違った誰かが纏っているだけで、
一瞬で、あの部屋に引き戻される。

なんて罪深い香りなのだろう。

この感覚が、
あなたと同じ香水の香りが漂った
という一節になり、
やがて『罪深香』という楽曲へと形を変えていく。

終わりに|香りと共に、生き直すために

仕事も、健康も、愛も失った部屋で、
私は香りという記憶と向き合っていた。

香りは、過去を呼び起こす。
でも同時に、人が確かに生きて、誰かを愛した証でもある。

このエッセイは、
病気と共にある日々を、
もう一度、生き直すための記録だ。

普通に働きたい。
普通に笑いたい。
ただ、それだけだった。

それでも私は、
生きづらさを、少しだけ美しく言葉にすることで、
誰かの記憶や痛みが、
ひとりぼっちにならないようにと祈っている。

  • Sound of Life

    物語のためのサウンドトラック

    「透明な履歴書」には、言葉にならない感情を託した「主題歌」があります。 限られた時間の中で録音された、祈りのような3つの旋律。 それぞれの物語の湿度に合わせて、静かに添えました。

  • Voice / Reading

    朗読:「透明な履歴書」

    (Coming Soon / 順次公開予定)

    川島琴里の声による朗読と、エピソードトーク。 現在、一つひとつの物語に音を灯す準備をしています。 完成したエピソードから、この場所で公開されていきます。

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著者川島琴里

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